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​長年の疑問がイッキに解決

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​濱野 美津男

              (写真愛好家)

ここ数年 自分の写真がドンドン貧層に成って行くのを感じ、昨年末にはもうやめてしまおうか? と、真剣に悩んだのですが、昔のセミナーのDVDを見直していて気付きました。

それは自分の写真が貧層に成っているのではなく、停滞している腕よりも早く作品を見る目が出来て来てそんな感覚に陥っているのだと云う事です。

勿論 停滞している腕を放置して良い筈はなく、それに対する原因もアレコレと挙げてみたのですが、どれも当たってはいるものの特効薬に成りそうなものを見つけられずに居たのです。

そのため質感表現が足りないのではないか? とか、被写体選びが悪いのではないかとか 的外れな事にばかり気を取られていたのです。

それで昨年亡くなった五海ゆうじ氏の写真概論を見直していて自分の写真に決定的に掛けているものを発見したと言う訳です。

元々私はスナップや絵葉書の写真を嫌う傾向があったのですが、本当に大事なことはそんな事ではなく、その時撮ろうとしている被写体の最大の魅力を引き出して作品として表現する事であり、結果としてそれが演出であっても作品として成り立っていれば何ら問題はないとの結論でした。

勿論 思い通りに撮るにはマダマダ時間を要するし、生きている間に実現できるかは疑問ですが、目標が見つかったことでホッとした気持ちです。

写真を撮ることが苦痛だった毎日から解放されたので目標に向かって再出発です。

自分でも気付かぬうちに鑑賞者が心地よさを覚える写真を撮るためにばかりに努力を続けて来ていたようですが、ここに来て、それが私が写真に求めているものとは違う事に気付いて訳の分からない悩みに陥っていたのだと霧が晴れたような気分です。

だが、原因は分かったもののそれを実現し、解決するためには何をすべきか試行錯誤の毎日が待っているような気がします。

写真家も芸術表現者の一人だと考えれば気楽にシャッターを切れる日があるなんてことは考えられないのが当たり前ですが、余りにも機械任せに撮影されたものが入選を遂げている事実が多く、写真の将来を不安にさせています。

もっとも そのような現実はレベルの低いところでの状況であり、真に高いレベルでの評価はやはり表現力であることには安堵するところです。

勿論 記録としてのスナップ写真を否定するつもりはなく、楽しんで撮る写真も大いにあって良いとは思うのですが、芸術性を競い合うところへの出展は如何なものかと・・・

本来の指導とは、本人の力量を正確に評価し伝えることにあり、決して勘違いをさせることではないと考えていますが、本質を教えず受賞のアドバイスばかりに力を入れる指導者が多いことには幻滅してしまいます。

ンテスト自体も其れに応えるかのように評価基準をドンドン下げて「何でもあり」の状態になっているのは嘆かわしいことです。

原因はいろいろ考えられますが、主には写真芸術を追及する行為と、写真を写す楽しさを知らしめて写真の復旧を目的とする行為が見分けがつかない程に混ざり合ってしまっているところにあるように思います。

会員数の減少など難しい問題があるようですが、本来の姿に戻り権威を取り戻せるように厳正な評価をすることでしか意義のある国際的な信頼は回復できず、失墜の一途を辿るのではないでしょうか?

一方 カメラや写真の楽しさを知らせる意味ではローカルコンテストが頑張っているのですからソチラとの住み分けを図れば良いと思います。

今回も明らかにオートで撮ったのだとわかる写真が大手のフォトコンで入賞していたのを見ましたが、あの写真の何処に撮影者の意図や表現が反映されていると云うのでしょうか・・・

​表現は自由ですが、機械任せの写真からは撮影者の思いは伝わって来ません。

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