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​濱野 美津男

              (写真愛好家)

仕事のリタイヤをキッカケに写真を趣味としてきて7年になる。
写真が何であるかも分からず手探りで撮り続けながら色んな事に迷ってきたが、最近になってヤット少しだけ分かったような気がしてきた。
それは、カメラで写し撮れるものには機械的な限界があり、それを超えて世に出せる作品にするには撮影者の深い思いが表現できなければ不可能だと云う事で一般的に感性と抽象的に呼ばれているモノがそれに当たるのだと解りました。
今頃? と、云う感じですが薄々は感じていたもののハッキリとヤッパリそうなんだと具体的に理解できたのは最近になってからなのです。
ちゃんとした知識が無いために今まではメーカーの宣伝文句に惑わされてカメラやレンズなどの機材さえ高額なものを使えば其れなりに作品らしい写真が撮れると信じてしまったり、写歴の長い方の話を鵜呑みにして型にはまった写し方をしてきたりと随分と遠回りをしてしまったような気がしています。
もっと早く自分の表現が大切だと云う事に気付いていればショートカット出来たのかも知れないのですが、手探りでやって来た独学が全くの無駄だったとも思えません。
写真を含めて芸術と呼ばれるものには「こうでなければならない」と云う決めつけは無く、スベテが自由だからです。
芸術作品と駄作を振り分けるのは、その時代の鑑賞者の受け止め方で、それには流行や社会的な影響力も大きく こちらにもハッキリとした定義は無いのですから・・・
それでは撮影者は何を信じて活動を続ければ良いのでしょうか?
私の考えでは、それは自分以外にないと考えます。
歴史上の芸術家がやって来たように例えパンの耳を齧る生活を続けたとしても自分にしか理解できない表現だと信じて・・・
それは一般的に云う楽しく撮影するスタイルとは違い、とても苦しい生活や活動を強いられる事で、誰でもが実践できる事ではありませんが、少なくとも写真を志す人には必要な心構えのような気がします。
勿論 私にはそんな覚悟も才能も持ち合わせがないので大それたことは考えずに撮影を趣味として楽しむ程度に考えているわけでローカルのコンテストに応募しないのもその辺に理由があります。
自分をドングリと自覚すればするほど「ドングリの背比べ」に参加する意味を見いだせないからです。
勿論ローカルコンテストをレベルアップのステップだと考えている人も大勢居るようなのでその人達を非難するつもりも毛頭ありませんが、上には上が居るわけで中途半端な受賞で足踏みをしてしまわず、常に上を目指すことが肝要です。
決定的な違いは市民参加のお楽しみ写真展やメーカーのコンテストはその目的からして写真芸術を評価する展示会の厳格なコンテストとは全く別のモノだと云う事で同等に受け止めてしまうと方向を間違えることになりそうです。

評論家でもない私が批判がましいことを書くのも無用な敵を作りそうなので今日はこの辺で

​ローカルコンテストの受賞意義

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